2007年8月10日 (金)

”親の総取り”

エンドスウィープ(父フォーティナイナー)は現役時代にアメリカのGⅠ・ハイランダーS(ダート1200m)勝つなどスプリント路線で活躍した。彼の名前“End Sweep”を日本語に訳せば『直線一気』という意味だが、カジノで負けが込んでいながら最後の大勝負に勝って相手のチップを根こそぎ手に入れたような場合にも“End Sweep”という言葉が使われることがある。

もともと“スウィープ”とは「掃く」という意味で、カーリング競技で選手がせっせと氷を掃く動作が「スウィープ」と呼ばれているし、日本では「3タテ」と呼ばれるプロ野球の同一カード3連勝のことを、メジャーリーグでは「スウィープ」と呼ぶことをご存じの方も多いだろう。

また、競馬ファンであれば、よもや「ステークス」という言葉を聞いたことがないということはあるまい。

もともと「ステークス」とは「スウィープ・ステークス」の略で、文字通り”stakes”(賭け金)を”sweep”(一掃して独り占めする)ことである。レースに参加する馬から一定額の出走登録料を徴収し、勝者がそれを総取りする方式は現在のレース賞金配分の原形となった。

エンドスウィープは米国で新種牡馬チャンピオンとなったのちに日本に輸入され、ラインクラフトやスウィープトウショウ、アドマイヤムーンなどの活躍馬を送り出したが、来日3年目の春に早世してしまった。わずか11歳という若さだっただけに、なおさら惜しまれる死である。

Swept急遽、エンドスウィープの後継としてアメリカから輸入されたのが、エンドスウィープ産駒のスウェプトオーヴァーボード。この長ったらしい馬名の由来はやはりギャンブル用語にあって「ひとり勝ち」とか「親の総取り」などの意味がある。

”Swept Overboard”を直訳すれば「テーブルの上を一掃する」という意味であり、テーブルの上にあるものとは、すなわち「チップ」に他ならない。2歳でデビューしてすぐに勝ち上がり、3歳春に重賞タイトルも獲得し、さらに5歳になって1600メートルのメトロポリタンH(米GⅠ)を史上4番目のタイムで優勝するなど、父とは異なり、距離の融通性や成長力を示したところに、私などは種牡馬としての魅力を大いに感じる。

Swept2私が共同所有するポーカーアリス(牝2) は、そのスウェプトオーヴァーボードの産駒。おかげさまで先月19日の旭川アタックチャレンジ競走で1着になることができ、昨日付けでも書いたように、選出されれば8月25日のJRA札幌クローバー賞を予定している。

彼女の名は、アメリカに実在した伝説の女性ギャンブラー、ポーカー・アリス女史にちなんで命名した。もちろん父「親の総取り」からの連想である。

ポーカー・アリスは”伝説の”人物であるから、実際に彼女がどれほどの強さを誇ったのかは謎に包まれている部分が多い。しかしながら、かなり若い時期から無敗を誇っていたことだけは間違いないようだ。波乱に富んだ彼女の「ギャンブラー・ストーリー」は映画にもなっているから興味のある方は御覧になってみるといい。ちなみにアリスを演じているのは、かのエリザベス・テイラーである。

 『Poker Alice』(1987年公開)

 http://www.amazon.co.jp/Poker-Alice-Elizabeth-Taylor/dp/6303077684

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2007年1月16日 (火)

そして馬はいなくなった(3)

Kenwatanabe_1太平洋戦争末期の1944年6月。中将に昇格した栗林忠道は、硫黄島守備隊総司令官に就任。騎兵一筋の軍歴をかなぐり捨てて硫黄島に向かった。

近く予想されるアメリカ軍の硫黄島上陸に対し、従来のような水際で敵を粉砕する作戦では、徒に兵力を失うだけで短時間で玉砕する危険性がある。そう考えた栗林司令は、島全体を塹壕とトンネルで埋め尽くし、自ら先頭にたって全将兵を硫気吹きすさぶ地下に潜ませた。敵の砲爆撃を避けて、持久戦を行うという作戦を打ち立てたのである。彼は、バンザイ突撃や勝手な玉砕を厳しく禁じ、なんとしても生き抜いて1人が相手兵士10人を殺すことを目標として「一人十殺」を合い言葉とした。

12/14付当ブログ「映画『硫黄島からの手紙』」にも書いた通り、この時、硫黄島には馬は一頭も居なかったとされる。騎兵出身の栗林に与えられた武器は、「馬」ではなく「戦車」だった。硫黄島守備隊の援軍として戦車第26連隊が配属されることになったが、その戦車隊の指揮官こそ、当時中佐にまで昇進していたあの「バロン西」だったのである。

西中佐は硫黄島行きを拝命して東京を発つ際、ウラヌスに別れを告げて、たて髪を切り取り、そっとポケットにしまった。そのたて髪はウラヌスとの写真とともに死ぬまで肌身離さず持っていたという。

「私を理解せぬ人は多かった。しかしウラヌスだけは私を分かってくれた」

オリンピックの英雄でありながら軍内部では冷遇され、最前線の激戦地に送られた西中佐であったが、同じく騎兵出身の栗林司令とは”ウマが合った”とされている。硫黄島には馬はいなかったが、それでも二人は、馬について、馬術について、時間の許す限り大いに語り合ったことだろう。しかし、米軍の上陸はすぐそこまで迫っていた。

1945年2月16日、空母12隻からなる米第52機動部隊と、戦艦6隻、巡洋艦5隻からなる第54機動艦隊が硫黄島沖に出現。3日後の19日には、大挙して硫黄島に上陸を開始した。「硫黄島の戦い」の幕開けである。日本軍2万に対し、米軍は7万5千。補給も絶たれた日本軍の劣勢は火を見るより明らかであった。

だから、「5日間の作戦で硫黄島を占領」とした米軍の作戦計画は、特に驚きを感じるものではない。しかし、圧倒的不利の日本軍は36日間も持ちこたえ、米軍側の死傷者は2万6千人にも及んだことから、「実質的にはアメリカ側の敗戦」と捉える歴史家も少なくない。ちなみに、ミッドウェー海戦後の戦いで、アメリカ軍の戦傷者が日本軍の戦傷者を上回った唯一のケースとされ、米軍の硫黄島攻略司令ホーランド中将は「太平洋で戦った相手指揮官の中で、もっとも勇敢だったのは栗林」と述懐している。

この戦いの様子を知っていただくには、やはり劇場で映画を観て頂くのがいちばん早い。

ところで、その映画の中では、負傷して洞窟に潜む西中佐に対して、「オリンピックの英雄・バロン西。我々は君を知っている。君を殺してしまうのは世界の損失だ。お願いだから降伏して欲しい」とアメリカ軍が呼びかけたという有名なシーンは描かれていない。

これについては、西中佐が硫黄島にいたことをアメリカ側が知るはずもなく、アメリカ側によって造られた”美談”、とする歴史的見解もある。一方で、いったん日本軍に捕らえられたアメリカ人捕虜が、その後のアメリカ軍の攻勢で解放された際に、バロン西の存在を知らせたという話も伝わっている。気さくな人柄とされ、アメリカ在住経験もある西中佐だけに、アメリカ人捕虜と会話を交わしていたとしても不思議ではない。

しかし、いずれにせよ西は洞窟の中で自決。東京の馬事公苑に残してきたウラヌスも、西の後を追うように、翌4月に老衰でこの世を去った。

アメリカ軍の攻撃が開始されてから36日目となる3月26日未明。弾薬と飲み水が尽き果てた栗林司令他400名の将兵は、最後の攻撃に撃って出る。司令はその攻撃の途中で負傷し、歩けなくなったところで部下に介錯を命じ、自らの遺体は絶対にアメリカ軍に見つからぬようにと念を押して埋めさせたという。

馬を愛し、馬と共に生きた二人が出会い、そして散った硫黄島。しかし、そこには一頭の馬もいなかった。

(この項終わり)

(C)2006WarnerBros.EntertainmentInc.andDreamWorksLLC

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2007年1月15日 (月)

そして馬はいなくなった(2)

『馬』という映画がある。

監督は“エノケンシリーズ”で有名な東宝の山本嘉次郎監督。主演は高峰秀子。制作主任としてほとんどのフィルムを撮影したのは、若き日の黒澤明である。主人公役の高峰英子が手塩にかけて育てた仔馬(軍用馬)との離別をテーマに、東北の農村の美しい四季の移り変わりや風俗、その純朴な人柄が描写された写実的作品であり、当時の軍用馬の生産・育成・流通についての貴重な記録フィルムでもある。

当初、東宝の重役は、この映画の制作に難色を示した。そこで、山本監督自らが陸軍省馬政課に出向き、できたばかりのシナリオを提示して相談してみた。すると馬政課長は「やりましょう」と言う。そうなれば話は早いモノで、陸軍大臣名で制作を許可する文書まで取り付けてくれた。ちなみにこの時の陸軍大臣は東条英機である。

こうして、映画『馬』の撮影はスタート。1941年に晴れて公開され、今日まで語り継がれる名作のひとつとなるのだが、この馬政課長こそ映画『硫黄島からの手紙』で渡辺謙が演じた栗林忠道騎兵大佐(当時)その人である。

1890年、長野県に生まれた栗林は1918年に陸軍騎兵学校を卒業すると、1923年には成績2番という優秀な成績で陸軍大学校を卒業し、恩賜のサーベルを受けてる。戦前には二度にわたり米国・カナダに駐在武官に勤務の経験を持つなど、陸軍では珍しいアメリカ通の軍人であった。

また騎兵として  当然だが  馬術にも長けており、1937年に大佐に昇格すると当時の日本馬政の責任者である陸軍省馬政課長(のちに馬政局長)に就任。「国民に愛馬の精神を」のスローガンのもと、精力的に馬政施策を実行した。その成果のひとつに『愛馬の日』があげられる。

1939年4月7日。政府はこの日を『愛馬の日』と定めた。軍用馬の生産・育成について国民の関心を高めて、愛馬精神の啓発を促したのである。この日、東京の目抜き通りを行進した3500騎にも及ぶ大騎馬隊の先頭を率いたのは、もちろん栗林大佐であった。映画『硫黄島からの手紙』の中で、渡辺謙演じる栗林が「世は常に諸君らの先頭にあり」とつぶやくシーンがあるが、騎兵の長として彼は常に人馬の先頭を行く立場だったのである。

その『愛馬の日』の制定に先立って、栗林大佐は「愛馬進軍歌」を全国公募している。年配の方の中にはご記憶の方もいらっしゃるかもしれない。”公募”という試みは当時としては異例だったが、歌詞約4万、作曲約3千が栗林のもとに寄せられたという。

   郷土(くに)を出てから幾月ぞ
   友に死ぬ気でこの馬と
   攻めて進んだ山や河
   執った手綱に血が通ふ
        (以下略)

栗林は厳正な審査のうえで上記の詞を採用。そして自らの考えで「執った手綱に血が通ふ」の一節だけを書き加えて発表した。

『愛馬の日』は戦後も長く続いたが、その主たる目的は「国民の愛馬精神の啓発」ではなく、靖国神社に眠る軍用馬の霊を弔うものに姿を変えた。

しかし、1968年になるとJRA馬事公苑が、

  ・馬への感謝
  ・馬や競馬を愛する人への感謝

という、かつて栗林大佐が抱いた理想に近い精神に基づいて『愛馬の日』というイベントを実施するようになったのである。今や馬事公苑の年間行事の中では春の『ホースショー』とならぶビッグイベントで、当日は全国各地の伝統馬事芸能の他に、アンダルシアンやポニーの演技、横鞍演技、軽乗演技、各馬術の供覧、ポニー競馬など様々なイベントが目白押しなり、大勢の入苑者で賑わいを見せている。

栗林大佐が目指した「国民に愛馬の精神を」の志は、今も間違いなく受け継がれているのだ。

(明日付に続く)

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2007年1月14日 (日)

そして馬はいなくなった(1)

12月14日付の当ブログ「映画『硫黄島からの手紙』」で、「実は硫黄島の戦いには、『馬』にまつわるエピソードが隠されている。」と書いた。もちろんエピソードの主役は、映画の中で渡辺謙が演じた栗林中将と、伊原剛志が演じた西中佐の二人。今日から3回は、競馬を離れて、そういったお話をご紹介する。

まずは、「バロン西」こと西竹一について。

~ * ~ * ~ * ~ * ~ * ~ * ~

西竹一は、男爵・西徳二郎の三男として生まれた。父は外務大臣や枢密顧問官などを歴任し、駐清公使時代には義和団事件処理に当たった人物でもある。1912年に死去した父の跡を継いで男爵となった竹一は、陸軍士官学校卒業を経て、陸軍騎兵学校に入学。その直後から馬術界で頭角を表し、ロサンゼルス・オリンピックの馬術選手に選抜される。

その頃、彼がイタリアで購入したのがウラヌス号であった。血統書はなかったというが、フランス産アングロノルマン種の去勢馬で、体高は実に181センチもあったとされる。しかしながら、障害馬にもっとも必要な柔軟性に富んだ馬体に勇気を兼ね備えていた。特にその癇性の強さは有名だったらしく、映画『硫黄島からの手紙』の中でも、伊原剛志演じる西竹一中佐が、ウラヌスの性格について思い出深く語るシーンがある。

1932年8月14日午後、オリンピック最終日のメインスタジアムに詰め掛けた十万人の観衆が見守る中、馬術競技・グランプリ障害飛越種目は開始された。

参加選手は11名。難易度の高いコースに人馬は次々に脱落し、完走を果たしたのはわずか5選手という過酷なコース設定だったが、最後に競技を行った西騎兵中尉とウラヌスのペアが減点8で完走。米国のチェンバレン少佐(減点12)を抜いて見事金メダルを獲得した。その瞬間、スタジアムはスタンディングオベーションの嵐がおこり、「バロン(Baron=男爵)・ニシ!」のコールが鳴りやまなかったという。

満州事変や国際連盟脱退などで世界中から非難を浴び、日本が孤立化への道を歩み始めた時代ではあったが、その華麗な馬術は国境を越えてアメリカ国民から絶大な賞賛を受けることになる。もともと男爵として社交性を兼ね備えていた彼は、英語が堪能で人柄も明るかったため、アメリカ社会に溶け込むのにはさほど時間を要さなかった。パッカード社から贈られたコンバーチブルを乗り回し、ハリウッドの著名人とパーティーに明け暮れ、挙げ句にはロサンゼルス市の名誉市民表彰を受けるにまで至った。人生に”ピーク”というものがあるとするならば、この時がまさに彼の人生のピークだったのかもしれない。

アメリカの熱気とは対称的に、日本では彼の評価はさほど上がらなかった。いや、むしろ下がった。アメリカ滞在中の彼の行動は陸軍内部で強い反感を買い、これが後々彼の運命を決定づけることになってしまう。

ロサンゼルスから帰国した西は、4年後のベルリン・オリンピックでは内国産馬での優勝を目標に掲げる。そのために手に入れたのがアスコット号であった。アスコットは、父が下総御料牧場の輸入種牡馬・チャペルブラムプトン、母の父が小岩井農場の輸入種牡馬・インタグリオーという、当時としては破格の良血サラブレッドで、天皇賞の前身とされる帝室御賞典や目黒記念などを勝った強豪馬だった。兄のワカクサも古馬連合競走や帝室御賞典を勝ち種牡馬にもなったほどの血統だから、互角の競走実績を誇るアスコットも、馬術に転向しなければ種牡馬になっていた可能性が高い。しかしもちろん馬術転用と同時に去勢されている。

時局は、坂を転がり落ちるように「戦争」へと傾きつつあり、調教に満足な場所も時間もない中で、西は懸命にアスコットを調教してベルリン・オリンピックの総合馬術競技に臨んだ。が、結果は12位。しかし、調教未完の馬であることを考えれば、当時の日本産サラブレッドの優秀さが証明されたと言ってもいい成績である。また、”オリンピック連覇”がかかった障害飛越種目には、再びウラヌスとのペアで臨むも、高齢に達したウラヌスには厳しいコース設定だったのか、落馬失格という結果に終わった。ちなみに団体馬術では6位という成績を残している。

ところで、2006年夏、名古屋競馬場で「バロン西 生誕記念」というレースが行われている。

ダートの1400m条件戦。10頭立てで行われたが、出走馬のうち1枠1番のキクノサンサンのボトムラインを辿ると下総御料牧場の名血「月友」が、また8枠9番マコトキンランの母系には小岩井牧場の名血「シアンモア」が注がれているのである。今や残っているだけでも珍しい両牧場の血統が、80年前を経てなお同じレースで相まみえたというのは、もはや奇跡と呼ぶに近い。

さらに、この2頭で見事ワンツーフィニッシュに!……なんてことになれば、それこそ「奇跡」だが、もちろんそんな凄いコトにはなるはずもなく、それぞれ3着と5着に敗れている。

(明日付に続く)

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