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2012年1月 2日 (月)

【近代競馬150周年①】競馬の起点

今年は横浜で近代競馬が行われるようになってから150周年の記念すべき年ということで、JRAでは年間を通じて各種の記念事業を展開することになっている。

横浜が開港したのが1859年7月1日のこと。その4日後には、現在の神奈川区役所近くの浄滝寺に英国領事館が開設されている。外国人による日本初の競馬が開催されたのは、その3年後の「1862年」というのが定説だった。だから今年2012年が「150周年」ということになるのである。

ただし、「海外でドイツ人が最初につくるのは道路。フランス人はカフェで、イギリス人は競馬場」と言われるほど競馬好きの英国人にしては「3年」というのは遅すぎやしないか。 そんな疑問が、以前から研究者の間で話題になっていた。

果たしてもっと早い記録が発見されたのである。それによれば、日本における競馬の起点は1860年にあった。その詳細は13年ほど前に「週刊競馬ブック」誌で詳しく紹介されている。

この発見は、競馬の埒内に収まるものでは当然なく、幕末から明治にかけての、いわゆる文明開化や舶来事物の研究、横浜市史など、多方面に影響がある一大快挙である。ただ、発表の場が競馬専門誌だっただけに   週刊競馬ブックがきわめて優れた出版物であることとは別の問題として   広く世間の目に留まる機会は限られてしまっているかもしれない。だとしたら、もったいない話である。

小ブログごときに競馬ブックの補完が務まるとは到底思えぬが、それを承知で敢えてここでも訴えたい。横浜開港から1年あまりの1860年9月1日に、現在の元町付近に半マイルの馬蹄形コースが造られ、競馬が行われていたことは間違いない。尻込みする馬がいたり、あらぬ方角に走り出す馬もいたり、騎乗者を振り落としたりする馬もいたりしたとされるが、それでも「愉快な催しだった」という記録が残されている。

だから、実際には今年は近代競馬発祥から152年目ということになってしまうわけだが、本格的な主催組織「横浜レースクラブ」が発足し、現在の中華街一帯に新たなコースが造成され、さらに開催プログラムが公に発表されるような競馬運営が始まったのが1862年であることには変わりはない。JRAのスタンスとしては、「愉快な催し」はさておき、組織化された競馬こそが正しい競馬の起点であるということだろう。そういう意味での「150周年」なのである。

(明日付に続く)

 

 

 

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コメント

立川健治と申します。いつもブログ、楽しく拝見させていただいております。1月2日付のブログに関して、関連部分に関して述べた拙著の原稿の一部をお送りいたします。参考にしていただければ幸いです。
典拠、参考資料も含めて詳しくは拙著『文明開化に馬券は舞う』第3章(世織書房、2008年)を参照していただければと思いますが、添付ファイルが送ることのできるアドレスを教えていただければ、第3章全部及び関連部分の原稿のファイルをお送りいたします。そこには競馬ブックの原稿のことについてもふれております。

Ⅲ.横浜の競馬
 ー①幕末の競馬―競馬への欲求
 日本にやってきた西洋人たちが、開港後、競馬を開催するまでには、それほど時間がかからなかった。ボンベイ、上海、香港などの租界や植民地と同じように、横浜においても競馬が欲求されていた。もちろん、当初から賭け(馬券)も行なわれていた。イギリスのエプソムダービーやセントレジャーなどの情報も伝えられ 、それに対する馬券も売られていた*図版→エプソムダービーのロッタリー広告J.G.76、6・6。居留地は競馬も必要とする。このような彼らの馬券を伴う競馬に関する日本側の証言も残されているが、それは次のようなもであった )。
 「彼、空地へ馬場を補理(シツライ)ありておりおり乗馬をなす。其日の服は平日とハ違い思い思いの派手やかなる装して、三人五人ぐらい競馬(クラベウマ)をいたすを、同士の見物仲間にて、洋銀を百枚あるいは五百枚などと賭て勝負をなし楽しむことなり。都て西洋人は究理学のみにして、我国のごとく風雅風韻の優美なる楽み事はいまだ、露ばかりも見聞し事なし」
このように、かつての私たちにとって競馬もその賭けも未知で、「西洋人は物事をすべて打算的に行う(究理学)」といった形で受け止めるほかはなかった。だが鹿鳴館時代、私たちも、競馬とともにその賭けも導入することになる(第5章第1節)。
 大会形式をとった初めての競馬は、開港1年2ヵ月後、1860年9月1日(万延元年7月16日)に開催された。驚くべき早さだった。1859年11月来日したフランシス・ホールFransis.Hallは、その日記の1860年9月1日の項につぎのように記していた )。
「今日は、日本における西洋文明伝播の歴史の上で、初めて競馬が開催された日として記録されることになるだろう。レースの開催要項にしたがって、居留民たちforeign citizensは、山手の麓に準備されたグランドで第1回の大会を開いた。コースは、半マイル、川沿いの固い砂地の上に設けられた。そこからの眺めは大変すばらしいものであった。ホームストレッチ側には、多くの穀物が作付けされている山手の丘を見ることができ、反対側の方には、田畑と横浜の町が広がっていた。コースは杭とロープで区切られていた。審判台も設置され、観客のスタンドは居留民で埋められていた。出走馬は多く、レースは、非常に興味深いものであった。駆歩runningと速歩trotting競走が実施された。ある馬たちは、梃子でも動こうとしなかったし、また別の馬たちは、乗り手の指示に全く従わず、コースと別の方向に走りだすという始末だった。馬たちは、徹底的に天性の頑固さを発揮した。何人かの紳士は落馬したが、幸いにも怪我をしたものはいなかった。この日、一番興奮したのが、通訳官(フランス公使館付書記官兼通訳官)のブレクマンの馬が、障害の前で後込みして、彼をコースに振り落としてしまった置障害hurdleレースだった。」
ホールは、来日1ヶ月もたたないうちに、乗馬を始めていた。日記を見る限りレースに参加した形跡はないが、この開港以来、居留地初の大イベントであったこの競馬大会を十分に楽しんだ姿が伝わってくる。「劣悪な日本馬」が、競馬で「徹底的に天性の頑固さを発揮」する姿が、早くもここで描かれている。この9月1日は、残念ながら「日本における西洋文明伝播の歴史の上で、初めて競馬が開催された日として記録されること」にはならず、横浜の競馬史の上でも忘れ去られることになってしまったが、この日のことが、10年余りたった後につぎのように回想されている )。
「この頃(1860年9月)までには、居留地も大いに成長を遂げていた。日本にやって来ている外国人たちが集まり、最初の競馬大会が開催された。馬蹄形のコースが、堀川 creekの向こう側に作られた。そこに出走した馬の名前も、オーナーたちの名前も、横浜の歴史に残されていない。レースそのものは取るにたらないものであったが、人々が大いに楽しんだことだけは間違いない。」
堀川は、この1860年夏、居留地を出島化するための開鑿が済んだものだが )、居留地から見てその堀川の向こう側ということで、ホールの先の証言と合わせると、馬蹄形のコースが設置されたのが当時の本村(現・横浜市中区元町商店街一帯)だったことが特定できる。山手の丘の麓と堀川に挟まれた狭い一帯であり、間に合せのコースではあったが、ともかくも「最初の競馬大会」だった。振り返ってみると、建物もまだ海に面した Bund(海岸通り)と現在の本町通の間に数十戸と、居留地の整備もまだこれからの段階、直前の8月30日には攘夷を叫ぶ水戸藩士が神奈川宿を徘徊、横浜では厳戒態勢もとられていた 。こういった環境のなかでも開催する、繰り返せば、横浜には競馬が必要だった。
以下略

投稿: 立川健治 | 2012年1月 3日 (火) 00時37分

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