紙面から姿を消す競馬ネタ
昨日朝の読売新聞(東京発行所)を見て「えっ?」と思った。いや、実際にそう口に出してしまったかもしれない。
それというのも、昨日の宝塚記念の結果を報じた記事がの長さがたったの25行。文字数にして300文字足らず。勝ったドリームジャーニーの写真も掲載されていなかったのである。
以前、大井に集まるカメラマン同士の会話の中で、「以前に比べてマス媒体における競馬コンテンツの占める割合が減った気がするよね。気のせいかな?」なんつう話題が上がったことを思い出した。50回の節目を迎えた歴史ある古馬G1でもこんな扱いを受けているのである。決して気のせいなどではない。
90年代初頭に比べればTV地上波の競馬中継は減っているし、G1レース翌日の一般紙の扱いも小さくなっていることは動かしようの無い事実。土曜の夕刊に馬柱を掲載しているところもあるが、これは土曜の夕刊に書くネタが枯れていればこそで、段数を稼げる馬柱で紙面の穴埋めをしているに過ぎない。そもそも一般紙の夕刊そのものが、いつ消えてもおかしくない状況にある。
暇だったのでちょっと調べてみた。
トウカイテイオーが2冠を制した1991年に行われたG1レースは合計16。これらのレースを報じた翌日の読売新聞(東京発行所)の記事を文字数で見ると15974文字であり、1レースあたりの平均は998文字ということになる。
対して2008年の実績では、22のG1レースに対して、それを報じた記事文字数の総計は15928。1レースの平均文字数724のみならず、G1レースの数そのものが増えているにも関わらず、合計文字数は減少していたのである。
こうした傾向の原因を探れば、いくつか思い浮かぶことはある。
サッカーJリーグ創設前の91年当時、新聞のスポーツ欄と言えばプロ野球と大相撲と国内男子ゴルフ程度のコンテンツしかなく、競馬の入り込む余地は多分にあった。それはTVも同じこと。メジャーリーグやヨーロッパのサッカーリーグの情報がメディアを席巻する日が来ようなどとは、よもや思ってもいなかったことだろう。それが今では、クラシックレースであっても、紙面の片隅にひっそりと結果だけが報じられるという惨状である。
さらに先日も書いたように、新聞業界には広告段数激減による減頁の嵐が吹き荒れている。紙面が減ればニュースも削られるのは理の当然。かくして月曜の朝刊からG1レースの記事が姿を消しつつある今の流れが生まれた。
まあ、いくら減頁という事情があったにせよ、真っ先に競馬ネタが削られている現状を見れば、スポーツコンテンツとしての競馬に一般紙の編集者はそれほどの魅力を感じないのであろうと推測される。実際、通信社から配信される着順と払戻金だけを淡々と載せておけばそれでよい、と考えるエディターは少なくない。
しかし、レース結果や配当金といった客観的な情報はネットで誰でも入手できる時代。むしろ必要とされるのは、記者の、あるいはその題字を背負う新聞社の、あくまで主観的な観点に基づく論調だ。
そう考えた時、マス媒体から競馬コンテンツが姿を消しつつあるその理由の中で、ひときわ真実味を帯びてくるひとつの「仮説」に気がつく。すなわち競馬を優良コンテンツとしてメディアに送り出す能力そのものが、今まさに失われつつあるのではないか?
競馬ジャーナリズムの世界(そんなもんがあるのかどうかも怪しいが)では、他のスポーツに比べて新陳代謝の進行が驚くほど遅い。40歳を過ぎた「若手」が下っぱ仕事に追われている業界など、他にそうはないだろう。20年前と変わらぬメンツが未だにレギュラーを張るチームでは、「変革」もそう簡単な話はない。




















































逆に言えば(スポット参戦の内田博幸騎手はともかく)戸崎騎手は、こういう場であるからこそ勝っておきたかった。ダービーを勝つのが簡単ではなく、むしろとてつもなく難しいことは分かっている。だが、世間一般には、分かっていない人の方が圧倒的に多いのである。











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