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2008年10月26日 (日)

五輪に挑んだサラブレッド③

(昨日からの続き)

ベルリンオリンピックの馬術競技へのエントリーは前ロサンゼルス大会に比べ飛躍的に増えた。

当時のロサンゼルスはヨーロッパ各国にしてみれば辺境であり、今では信じ難いことだが多くの国が出場を見合わせていたのである。ために総合馬術には14名、バロン西が金メダルを獲得した障害飛越に至っては12名しかエントリー(実際に競技に臨んだのは11名)がなかった。それが、ベルリンでは総合馬術50名、障害飛越は59名までに増えたのである。日本国内ではバロン西の活躍に期待が沸騰していたが、前回とは状況はまるで違っていたと言っていい。西は、アスコットで総合馬術に、そして障害飛越には前回大会と同じくウラヌスでエントリーする。

総合馬術最初の競技は馬場馬術。前回大会の金メダリストと競馬のチャンピオンホースとのコンビということもあり世界中の馬術関係者が西とアスコットの競技に注目するが、結果は34位。やはりサラブレッドにとってこの競技は鬼門であった。

2日目の耐久審査は全長36キロに及ぶ評判の難コース。特に最大の難所は池を伴った障害で、その池の深さは1m40cmもあった。しかし、アスコットはすべてのコースをタフに走り続け、規定時間よりも3分も早くゴールを駆け抜ける。ちなみに、この耐久審査では同じく日本から出場した松井選手と稲波選手が共に失格。他にも脱落馬は17頭を数えた。

耐久審査を終えてアスコットは一気に11位まで順位を上げる。残る障害飛越での上位進出への期待が高まった。

障害飛越は13の障害が設置されたコースで行われたが、やはりクロスカントリーのように上手くはいかず、10番目の障害で惜しくもバーを落としてしまい10点が減点されてしまう。結果、減点177の総合12位でアスコットのベルリンオリンピックは終わった。

 

昭和11年9月7日付読売新聞に、下関港に凱旋したバロン西の談話が掲載されている。

「思うような成績を挙げ得ず誠に残念でした。欧州各国ともとても優秀な馬を有していたが、頗る難コースで世界の名騎手も失格するもの多く余程の名馬でない限りこれを完全に走破することは難しい。東京大会までにはうんと勉強して優勝の自信はある」

また馬術選手慰労会の席では

「アスコットはよく難関を突破して時間より3分早く到着した。難コースを持久力を保って、よく飛んでくれたことと感謝している」

と語り、その上でオリンピックで3位以内に入れる素質を持っていると力説している。

彼がここまで馬の素晴らしさを強調したのは、おそらくアスコットの優秀さを世間に理解してもらいたかったのだろう。それほどベルリンの闘いは過酷であり、アスコットの頑張りは際だっていた。それを知るのは馬に跨ったバロン西ひとりだけだったのかもしれない。

実際、元々馬術競技用馬としてフランスに生まれ、生粋の馬術競技用馬として育成されたウラヌスが11頭の中で1位になったことは語り継がれても、競馬の世界から身を転じ、過酷なレースを耐え抜いて50頭中12位と健闘したアスコットについて語られることはほとんどない。

バロン西が抱えていたであろう強烈なジレンマは、4年後に迫った東京オリンピックでアスコットをメダリストにすることによってしか解消されないものであったはずだ。

だが、翌37年には日中戦争が勃発する。

東京オリンピックの代表に内定していたバロン西は、「西竹一大尉」として陸軍将校の道を歩み始めるのだが、その後のストーリーについては当ブログで以前に触れたのでここでは紹介を控える。

 

かつてアスコットを管理調教していた尾形藤吉は、後年の著書の中で「アスコットが数々の難関を切り抜けて野外騎乗でゴールに入ったという報告を聞いた時は、競馬で勝ったときよりもうれしかった」と当時の心境を書き記している。

今も記録として残る調教師通算勝利数1670勝。日本ダービー8勝。八大競走39勝。   等々。数々の金字塔を打ち立てた尾形をして「競馬で勝ったときよりもうれしかった」と言わしめたことそれ自体が、アスコットにとって最大の栄誉だったに違いない。

(この項終わり)

 

 

 

 

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