写真の作法
「何だか分からん写真が最近増えた」
以前、カメラマン同士の世間話タイムにこんな話題が出たことがある。黒潮盃の大井でのことだったか。旅行ガイドや広告に使われるスチールに一風変わった写真が目立つとか、そんな話だったと記憶している。
例えば極度に商品に近づいて接写するあまり商品の一部分を除いてピントが合っていなかったり、あるいは完全逆光で被写体が真っ黒になっていたり 。たしかに一見して「なんじゃ、こりゃ?」と思ってしまうものが目につく。
カメラマンの創作意欲の発露なのか、あるいは編集者の魂が揺さ振られたのか。詳細は分からぬが、かつて15年ほど前にレストランガイドの写真を撮っていた頃には、少なくともそんな風潮はなかった。
写真撮影の流儀というものは様々で、10人いれば10通りの作法が存在するといっても差し支えない。私はと言えば、若い時分に新聞流のやり方を叩き込まれたこともあり、首尾一貫「分かるように撮る」を仕事上の眼目としているつもりである。
そも、“写真”とは何か ?
哲学的な話を始めたらキリがないが、私はごくシンプルに「情報伝達のためのいち手段」という考えを第一義に置いている。したがってそれが何を表しているのかが一見して分からないようでは身も蓋もない。すなわち、良い写真というものは誰が見ても分かりやすいのである。
中には写真芸術論を引っ張り出してきて「分かる奴にだけ分かればよい」というような主張を唱える輩もいるが、これは大きな間違いで、完全なる自己満足の世界にほかならない。古今東西、絵画、彫刻、小説から映画に至るまで「名作」と呼ばれるものに理解しづらい作品など存在せず、どんなに高度な技術を注ぎ込んだとしても、見る人が理解できなければそこには何も生まれない。結果、過大な自己表現に終わるのみとなる。
話がデカくなってしまったが、馬の写真にたとえると、見た人が「あぁ、これは良い写真だな」と思う写真は二流で、「あぁ、これは良い馬だな」と思える写真こそが一流なのである。ただ、そう思っていても、なかなかその領域に踏み込むことは難しい。
「道を極める」のは何事においてもそう簡単なことではない。人目を引こうと奇を衒ってみたり、あるいは何とか分かりやすくさせようと思うあまり修飾過剰な写真ができあがる。両者とも典型的な しかも私がしょっちゅう陥る 失敗例である。
簡単なことを難しく表現するのはたやすい。難しいことをいかに簡単に表現するか 。それこそが技術であり、つまるところ写真の作法とはこれに尽きるのではないか。



































































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