松山吉三郎氏を偲ぶ(2)
松山吉三郎氏と野平祐二氏のお話の続き。(以下、敬称を略させて頂きます)
かつて野平祐二は、
「恵まれた環境に生まれてよかったねと言われることがあります。でも、そうではありませんでした。たった一人の人だけがそれを知っています。松山吉三郎さんだけです」
と語っていたし、一方の松山吉三郎は
「戦後、競馬が再会された当時は楽しかった。祐ちゃんと私はホントに気が合った。関西競馬に出張すると、決まって二人で京極の映画館に行った」
と回想している。まさしく二人は苦も楽も友にした”戦友”だった。
これは有名なエピソードだが、野平が松山を映画に誘ったのにはワケがある。
野平は映画本編を観るために映画館に足を運んでいたのではない。映画の上映の合間に映されるニュース映画を食い入るように見ていたのだ。そこにはアメリカの競馬の様子が映し出されいたのだが、フィルムの中の騎手は皆、鐙を極端に短くしたいわゆる”モンキー・スタイル”でレースを戦っていた。当時、日本の騎手の騎乗スタイルといえば、背筋を伸ばして馬の背中に屹立する”天神乗り”が主流。しかし、この頃から野平祐二は、”モンキー乗り”への研究を重ねていた。
映画が終わると、松山吉三郎は野平をダンスホールに誘ったという。私は、このダンスホールの回数券にまつわるエピソードを、野平本人からよく聴かされたものだ。そういう話をするときの祐ちゃん先生は、実に無邪気に、心の底から楽しそうに、当時のことを振り返るのである。騎乗機会に恵まれず、ある程度制限された生活を余儀なくされていたはずなのだが、両氏の”洒落た”スタイルは、この当時から培われていたのかもしれない。
鐙を短くして、馬の背から尻を浮かせて乗る野平は、当時の競馬サークルでは、異端児として扱われた。ろくすっぽ勝てないような騎手が、アメリカのおかしな乗り方の真似事をするとは言語道断だという空気が支配的だったという。しかし、そんな野平を松山吉三郎は暖かく見守り続けた。
「松山吉三郎さんは、地味な性格の苦労人です。私はどれほど感化されたか知れません。いつも二人で競馬の話をしていたし、いつも二人で京都の街を歩いたものです。」
後に野平はそう語っている。
松山吉三郎氏のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
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明後日の有馬記念には、松山氏や野平氏らを輩した”尾形一門”から、保田一隆調教師がトウショウナイトで挑むことになる。とてつもなく高い壁がそびえ立つレースではあるが、期するところはあるだろう。
さらに、12/29に大井で行われる交流GⅠ競走・東京大賞典に出走予定だっ たマンオブパーサーが出走を辞退し、補欠一番手の立場だったカフェオリンポスが急転出走可能となった。言うまでもなく、松山吉三郎氏の次男でJRA調教師の松山康久調教師の管理馬である。
マンオブパーサー側が”譲った”感も否めないが、こういう舞台が整っただけで「感じるものがないか?」と問われれば否定する材料もない。もとより交流GⅠ・ジャパンダートダービーを勝った舞台でもある。今年最後のGⅠレースで奇跡が起きないものだろうか。
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